Candle建物

建屋98歳誕生会まであと1日。

キャンドルショップのある明日98歳を迎えるこの建屋は、1915年6月16日に三菱合資会社小樽支店附属室蘭事務所として新築が決まりました。明日で98年です。

ちなみに、「三菱合資会社」とは、の前に岩崎弥太郎の歴史を。

坂本龍馬の海援隊の影響を受けながらも、後藤象二郎の命で、土佐商会の長崎出張所(長崎商会)を任された岩崎弥太郎は、大阪に移動し、大阪商会として大阪商人相手に土佐物産の卸をします。中央政府の藩営商会取り潰し政策により、藩会計から独立して、私商社のかたちで九十九商会として東京-神戸-大阪-高知間の飛脚船を存続。しかし、代表者は藩の上士だったため、関係は旧来のままでした。そして、廃藩置県で土佐藩が消滅し、弥太郎は個人事業として九十九商会を続けることになるのですが、上のメンバー3人の名をとった三川商会としての藩士結社の名に改名。その頃、日本の海運は外国の手に牛耳られていたので、政府は海運会社を設立して力を入れるのですが、経営がうまくいかず、三井資本で日本国郵便蒸気船会社が設立され、三川商会は東京-大阪間の航路で顧客争奪の死闘が繰り広げられ、ついに岩崎弥太郎が陣頭に立ち采配を振るい、3人は、一目置くようになりました。そして、三川商会の名を三菱商会に改めます。これが三菱のはじまりです。

その後、海運業で半官半民の日本国郵便蒸気船会社より優位になり、政府が三菱採択。一方、弥太郎は、「自己貨物の確保」に邁進していきます。自前でインフラを持っているのですから、原料、製品を確保するのは事業者として当然外せなかったのでしょう。九十九商会時代の紀州の炭鉱をはじめ、吉岡銅山を買収します。さらに、三菱商会を三菱汽船会社と改名。解散した日本国郵便蒸気船会社を引き継ぎます。北海道にも航路を開き、日本一周を実現。地方の物産の出荷を促進、海運業の付帯業務にすぎなかった金融業務が本格化し、のちの三菱銀行に、また、海上での保険の必要性から保険会社の設立をしようとしましたが、認められず、しかし、これが後の東京海上保険会社設立につながります。三菱の海運で、旧来の商品の流通に大きな影響を与え、一部で三菱への非難になっていきます。

明治14年の政変で、政府は三菱保護政策を一転し、対抗する新設の共同運輸会社と国内主要航路で激しい競争にあいます。弥太郎は疲弊し、病没。引き継いだ、弟弥之助は、政府よりの借款をすべて返し、政府による命令書から解放される道を選びました。そして、共同運輸会社と合併し、日本郵船が発足します。一方、海運以外を三菱社として独立。鉱業部門に比重を置きます。これまでは、政府によって個別の事業は独立採算体制とされてきたのですが、政府のしばりがなくなったため、総合的に管理するようになりました。

そして、明治26年、商法の一部が改正され、三菱は再び会社組織にすることになり、三菱合資会社が設立されることになります。

これが、この建物が建ったときの社名です。
この会社は、三代目弥太郎の息子久弥が引き継ぎます。

ようやくこの社名。疲れました。^^

その時代に、北海道に進出。
このへんはまたあとで書くことにします。

明日は、三菱だけではなく、北海道の炭鉱などさまざまなことについて話します。

参考)三菱は、岩崎弥太郎が創業、二代目は弟弥之助、三代目は弥太郎の息子久弥、四代目は弥之助の息子小弥太です。